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むきだしの感情にどうやって向き合えば良いのか

先日友人と、「家庭内問題・自己肯定感」などのテーマについて話しあった。

その間、以前観た映画「愛のむきだし」が脳内にちらついたので、記憶が新しいうちに書き綴っておきたい。

映画「愛のむきだし」は、満島ひかり、西島隆弘、安藤さくらなどが出演している約4時間におよぶ長編映画。登場人物は皆、一筋縄ではいかない幼少期・思春期のトラウマから今でも抜け出せずにいる大人たちだ。新興宗教、懺悔、盗撮罪、勃起、レズビアン、自慰、DV、自殺、殺人など、狂信的な愛が形を変えて次々と描かれる。歪曲した変態性や過激な信念が自他ともに破壊へと導いていき、愛を追求するがあまり、精神おかしくなったり再生したりしていく。

むきだしの感情にどうやって向き合えば良いのか

といっても今回は、映画の感想文を書きたいわけではなくて、この「家庭内問題・自己肯定感」というむきだしの感情にどうやって向き合えば良いのか、未だにわからないという行き所のない内容だ。(ダラダラと綴っているだけなので申し訳ない…。)

「私は親に愛してもらえなかったのだから、私が誰かを愛する義理はない」

「私は親に愛してもらえなかったのだから、子どもに同じ思いはさせない」

「私は親に愛してもらえなかったのだから、どうせ何やったって自分の人生決まってる」

荒削りで剥き出しの心の叫びは、日々無線LANのようにそこらへんを飛び交っている。実際の話に基づいているとされている映画でも描写されている、新興宗教、盗撮罪、DV、自殺、殺人もすべて日常生活と紙一重だったりする。

そんな中から差し伸べてきてくれた手を握り返して、また今でも握れている人たちは、本当に数少ない。

私の、特に日本生まれ日本育ちで小さな社会しか知らない私の周りの「色んな」は、きっと世界中の「ひとつまみ」でしかないだろう。

世の中大半からすれば大いに”恵まれた”者が誰かの人生に関わろうとしたって、その程度の引力では何の良い影響力も与えられないかもしれない。

差し伸べてくれた手を握り返せない時は、包帯をあてがってあげられないのなら、むやみに傷口に触れるべきではない、という自己嫌悪と猛省のループに陥る。そして、不幸の体験者のみにその包帯をあてがう権利があるのだから、という滅茶苦茶な自己正当化にも走る。

血縁の繋がりがなければ手を差し伸べてはいけないのか、という当惑。無意識に人間関係の淘汰に加担しているんじゃないか、という恐れの自覚。逆に血縁の繋がりがあるのであれば決して他人事化せず包帯を握りしめているのが筋なのか、という責任。

思考があっちこっち漂って結局いつも結論に達することはできない。今日も今日とて悩んでも答えには行き着かない。

ただ、脳裏に浮かぶ大切な人たちに、1日でも多くの平穏な時を願う。そして「今日も生きててくれて良かった」と心で抱きしめたい。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!