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深夜20分のありふれた世界

群集が一斉に吐き出した二酸化炭素が、空気を汚染した。

その黒いため息は瞬く間に天井一面を覆い、どんよりとした部屋の薄暗さに拍車をかける。

夜明け前の田んぼに靄がかかったみたいに、空気が湿っぽい。

群集はお互いを全く知らない他人同士だが、ある共通の目的を果たすために集まっていた。

ある者は穴が開きそうなほどケータイを見つめ、ある者は隣に寄り添う恋人の手を握り、またある者は腕組みをしてむっつりと下を向いたまま動かない。

葬式でもないのに、この群集がまとっているのは黒・灰色・紺といった暗色ばかり。誰もファッションに気を遣っている様子はない。

それぞれが毒々しい紫色の椅子に腰掛け、行き所のない不満を押し殺すために、無言で時をやり過ごす。

時刻は00:15。ちょうど今、ナイトフライトの搭乗時刻が20分遅れたというアナウンスが入ったのだ。

00:16。

さっきから成人男性の力強いイビキが響き渡っているが、思いやりのせいか無関心のせいか、誰も止めにかかったりしない。

さっきまで1人で走りまわっていたインド人の子どもは、すっかり戦意喪失し、母親に寄りかかって甘えている。

00:18。

頭上の大型スクリーンの中で、金髪ショートヘア美人のアメリカ人キャスターが、米某企業内のセクハラ事件について淡々と解説し始めた。

目の前に座っている白髪のシンガポール人アンティ(おばちゃん)は目をつぶって化石のように動かない。そのうち唸り声をあげて大きなあくびをして、奥の銀歯を艶かしく覗かせた。

すぐ横にいる、アンティの夫であろう老人は、目を菩薩のごとく数ミリ開いた状態で硬直し、寝ているのか死んでいるのかわからない。

別のシンガポール人老夫婦はオレンジ色のパスポートを持って、カウンターにいるCAさんに何やら話しかけている。怪訝な表情だから、搭乗時間はまだかと尋ねているのだろう。ちなみにこれで2回目だ。

00:22。

吐き出された靄は、相変わらず天井付近で渦を巻いている。

そして群集は、相変わらず浮き草のように沈黙を保ったまま、時間だけがゆっくりと前に進む。

00:28。

持論だが深夜フライトにマスクを持ち込む人は、「睡眠集中派」か「すっぴん死守派」に分かれ、大抵が日本人か韓国人だと相場が決まっている。今この場には4人。

シンガポール旅行者であろう韓国人の若い女の子のなんかは、ピンク色のマスクを顎まで下げているけれど、それって意味あるのだろうか。彼氏の肩にもたれかかって何か言いたげだけれど、肝心の彼氏は、横にしたSamsung画面に両手親指を叩きつけるのに忙しい。

00:32。

デレビ画面が金髪美人から、お世辞にも美人とは言えない小太りのおばちゃんに変わった。ドスの効いた低い声で株式相場動向について語り出す。

どこか近くで、ひそひそと日本語を話す親子の声が聞こえる。

2つ前の列では、M禿げの進行したおじさんが脇に赤いパスポートを挟んだまま、日経新聞を読んでいる。

そう、この飛行機の行き先は日本だ。

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ピンポンパンポーン♪

“みなさま、大変お待たせいたしました。只今より、搭乗を開始いたします。”

柔らかな女性の声が、遅延への謝辞と搭乗手続き開始を同時に告げる。

ざわめきが、再び群集の中から沸き起こる。銀歯のアンティは菩薩化した夫を叩き起こし、活気を取り戻したインド人の男の子がまた駆け回る。

同じ機体に乗るのだから、この地を離れるタイミングは皆んな一緒なのに、何を生き急いでいるのか人々は我先にと行列を作る。

いつのまにか黒い靄は、まっくろくろすけのように、するすると逃げていなくなっていた。

誰の顔にも、1日をやりきった疲労と安堵の表情が浮かんでいる。

うん、今日も本当にお疲れ様でした。

私はこの列がはけるまで、もう少し、のんびりしよう。

というわけで、日本に一時帰国いたしました。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!