自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

感受性を守るということ

私が心を奪われた詩の1つ、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」である。

大学4年生の時、とある講義でこの詩と出会って以来、ずっと頭から離れないお気に入りの作品だ。

物事が思い通りにいかない時は、いつも日記の裏表紙に貼り付けているこの詩のことを考えて、反省したり、心を落ち着かせたりする。

私の畑(といっても雀の涙くらいの浅はかな知識だけれど)は英語教育と国際協力の2つ。

草の根活動の原点であるボランティアから、NGO、国連など、色々な目線を経験してきた。

なんでわかってくれないの?

なんでこうなっちゃったんだろう?

この人たちをどうしてあげたらいいんだろう?

科学技術や理屈では救えない世界が、どうしてもあるということを、たくさん思い知らされた。汗も涙も流しながら、自分なりに一生懸命もがいた日も数え切れないくらいあった。

けれどシンガポールのような国にいて、毎日何となく暮らしていると、こういった感受性を何故か忘れてしまうことが多い。

「シンガポールのような国にいて」という発言がそもそも言い訳だけれど…。

この記事はそういったわけで、自分への反省という意味でも書き綴っている。

「忙しいな」と思う時は、頭ではなく「心が忙しい」だけで、そういう時は大抵、感受性のアンテナが弱っている時。

感受性のアンテナが弱ると、他者や自然への思いやりの心が失われると思う。そういった自分の姿は、ものすごく醜いし、好きになれない。

日々の忙しさに揉まれて、心の琴線に触れた過去の大切な経験を、埋没してしまってはいけないと、最近心から思う。

車でネズミをひいてしまった時の、巨大風船を割った時のような臓器の破裂音。

猛スピードで爆走しているレースカーが急停止した時のような、屠殺される豚の最後の声。動物のものとは思えない、耳をつんざくような音。

垂直の壁をよじ登りエアコンの中に避難した小ネズミが、そのままミイラ化し後日発見された時の、なんとも言えない悲しい気持ちと、すっぱい汚臭。

目覚ましが鳴る前の朝5時に、犬の遠吠えと子どもの笑い声でぼんやりと目覚める満たされた感覚。

病院付き添いのため、新宿周辺を難民申請者の男性と初めて一緒に歩いた時、

彼も言葉を話し、家族がいて、喜怒哀楽があるという、ごくごく当たり前のことにとても感動し、同時に申し訳なさと恥ずかしさに苛まれたこと。

生活資金が底をついている難民申請者の女性に、向こう1週間分の食料を提供しようとした時、

十分な在庫がなかったのでインスタントヌードル3つとリンゴ1つしか手渡せなかったのに、

少し涙ぐんだ笑顔で「ありがとうございます」と言われたこと。

東ティモール紛争時、インドネシア兵に目の前で両親を殺され、さらに姉をレイプされたという女性にインタビューをし、

「悪いのはその兵士じゃなくて、紛争を引き起こしてしまった憎しみの気持ちよ。恨んだって何も解決しないのだから、私はただ今の子どもたちに、愛の素晴らしさを伝えたいの。」と濁りのない目で語られた時の、衝撃。己の無力さ。恥ずかしさ。くやしさ。

今までの、たくさんの、「ごめんね」や「ありがとう」。

こうした、心のアンテナが震えた経験を、いつまでも大切にしていきたい。

私はやっぱり、目の前のたった1人の生活をより良くできる人間になりたい。

時間はかかるかもしれないけれど、そのために1日1日を、丁寧に生きていこうと思う。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!