写真集 * Photo Walk

世界を旅して写真を撮る「Photo Walk」が好きです。
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ロヒンギャ難民家族の物語<後編>:それでも難民を受け入れられるか?

海外生活

5年前の東ティモール。ある日お隣の家に、ロヒンギャ難民の家族が越してきた。

ロヒンギャ難民家族の物語<前編>:東ティモールにやってきたお隣さん
それはもう、5年も前のこと。 ロヒンギャ難民の家族がお隣に越してきた。 都会の娯楽が存在...

28歳の旦那さんと、27歳の奥さんと、自称7歳の活発おてんば息子アブラハム。

引っ越してきてから数週間、深夜食堂過激な夫婦喧嘩など隣人としてなかなか受け入れがたい行動が続いていた。

何世帯も集まるコミュニティー

案の定、ロヒンギャ家族の存在がコミュニティーに定着しつつある日に事件は起きた。子どもたちのサッカーにうまく混ざることのできなかったアブラハムが憤慨し、ティモール人の男児一人を突き飛ばして突き指させてしまったのだ。

東ティモール人はテトゥン語という現地語を話す。直近までインドネシアの占領下にあったためインドネシア語も混ざっているピジン言語だ。

しかしテトゥン語もインドネシア語も知らないアブラハムのコミュニケーション方法は、基本的に人にちょっかいを出すか、人のものを盗むことと相場が決まっていた。

人を呼びたい時は叩く。つねる。私のふくらはぎも幾度となく蹴られた。とにかく注目の集め方が、少し乱暴だったのだ。

その時は息子に怪我を負わせられたティモール人の母親が、アブラハムを叱咤する代わりに「僕も入れて」というシンプルなテトゥン語を教えてあげることで事なきを得たけれど。

それでも難民を受け入れられるか?

先日2月13日付けで法務省が公表した2017年の難民申請者数は、過去最多の19,623人に及んだ。そのうち難民認定がされたのは、わずか20人。信じられないほど少ない。

中でも近年話題となっているミャンマーにおける少数民族であるロヒンギャは、日本でこれまでに約120人が難民申請を行ったとされる。しかし難民認定されたのは19人に留まる。国際化や多文化共生をうたいつつも、難民受け入れにはまだまだ消極的だ。

東ティモールで約半年間「お隣さん」であったロヒンギャ家族とは、正直最後まで分かり合えないことの方が多かった。受けてきた教育や文化背景が、根本的に違っているから。善し悪しの二極問題ではなく、「自分の文化と異なっている」ただそれだけのこと。それだけのことなのに、それを理解し受け入れるのは、本当に体力がいることだ。

もし日本が難民受け入れに戸を開いたら、彼らに関わる一人ひとりに高いコミュニケーション力や異文化理解が要されることは避けられない。日本が来るもの拒まずで難民申請者全員を受け入れたところで、政治経済や教育といったトップダウンの問題より先に、個人の生活レベルにおけるストレスが飽和状態に達するのは残念ながら目に見えている。そういった意味では一概に全員を受け入れ・保護することはできないという言い分も理解はできる。

身近にある「国際協力」

こういった国際協力分野を真っ向から否定する人もいるだろう。途上国の子どもを助けるのは偽善だと面と向かって言われたこともある。手を差し伸べる側が安全圏にいるからと。

本当にそうだろうか。

飛行機の搭乗アナウンスを考えて欲しい。

「酸素マスクを装着する際は、まずご自分のマスクをお付けになってからお子さまのマスクを装着ください」というやつ。

なぜ自分が先なのかというと、他者に手を差し伸べる時、自分が倒れてしまっては元も子もないからだ。

国際協力分野も、ひいては教育分野も、私にとっては同じ理論に思える。手を差し伸べる(という表現は適切ではないかもしれないけれど)側が安全圏にいるのは、必ずしも全員が全員ぬるま湯に浸かっているのではなく、安全圏にいないと自他共に助けることができないからだ。偽善だからと目の前の不幸に無干渉でいるよりも、たとえ偽善だとしても手を差し伸べ続けようとする姿勢の方がどんなに強く美しいか。

そして何より「国際協力」=「途上国」という方程式

なぜ日本にやってきた外国人への歩み寄りは「国際協力分野」として捉えられないのか。「国際協力」は途上国だけではなく、すぐそこにある課題なのに。

例えば行動が暴力的であったアブラハムには、辛抱強く見本を示し続けた。ふくらはぎを蹴られても嫌な顔はせず、常に笑顔で挨拶を返す。「Diak ka lae?(元気?)」と声を掛ける。話す時は屈んで、相手と目の高さを合わせる。こういった小さな積み重ねをする優しさが、今の日本社会にはあるだろうか。

オリンピックだ国際化だと薔薇色の盛り上がりを見せる前に、一人ひとりがもっと真剣に向き合う必要があると思う。

昼下がりの東ティモール

いつかは思いが伝わると

数ヶ月が過ぎて、深夜食堂の音と匂いにも慣れっこになった頃。私が夜な夜な作業をしていて、部屋の電気が漏れていたのかもしれない。ふいにドアのノック音がした。

ドアを開けると、アブラハムがこちらを見上げて立っていた。「Bonoite!(こんばんは!)」くっきり二重の黒い瞳が輝いている。私のふくらはぎを蹴る代わりに、腕を引っ張って中華鍋のところまで連れて行った。お決まりのメニュー、魚の丸焼だ。中華鍋の隣にカミュと奥さんがあぐらをかいて座っている。その後ろには子猫が2匹、おこぼれをもらおうと歩き回っていた。いつか指摘した多すぎる油の量を、カミュたちは律儀に守っており、もう鍋の周りに油が飛び散ることはない。駐車場は共有スペースだからと幾度となくジェスチャーで表したのも伝わってくれたようで、深夜食堂は自分たちの部屋の入り口で、小降りに開催してくれるようになっていた。

私が地べたに座ったのを確認したお父さんカミュが、中華鍋に放り込まれた魚を顎で指した。アブラハムが魚にかぶりつく真似をする。「食べて」と言っているようだった。断っても断っても勧めてくるので、結局、そのアジみたいな魚を一口だけもらうことにした。中華鍋に放り込まれていた小さな魚は、家族分ぴったりの3尾しかなかった。私が遠慮がちに魚を口にしたのを見て、アブラハムが嬉しそうにお母さんにすり寄った。

深夜の怒鳴り合いは、その後も最後まで完全になくなることはなかった。それでも罵声を耳にするたびに、怒りの感情をもって耳を塞ぐのではなくて、少しでも彼らの心が安らぐようにと手を握るようになった。

それから数ヶ月して、その家族は唐突にいなくなってしまった。仕事から帰って来たら、家がもぬけの殻になっていたのだ。野菜売りの婆婆や、近所のティモール人に行き先を尋ねても、みんな「わからない」の一点張りだった。

今はどこで何をしているのだろうか。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!