「あなたは何者?」均質化する世界で問われるアイディンティティとは

突然だが、昨日着ていた服を覚えているだろうか。それはどこのブランドのものだった?今日起きてから口にした飲み物は?今このブログを何で読んでいるか?そしてちょっと考えて欲しい。そこに「自分らしさ」があるかどうか。

朝起きてからスタバでコーヒーを飲み、バーガーキングでお腹を満たし、SamsungのケータイでYoutubeを観る。こういった生活は日本やシンガポールに限らず世界中の多くの国で送ることができる。

UNIQLOやZARAなどのファストファッション、IKEAに代表される家具量販店、StarbucksやMacDonaldといった飲食店など大手グローバルチェーンが寡占している時代。その買い手が求めるものは「自分らしさの表現」ではなく、「いつでもどこでも安心できるクオリティのものを口にしたい」「着るものを安く手に入れたい」「手軽に生活環境を良くしたい」という本質的な欲求が先行している。別に同じUNIQLOの服を着ている人と道端ですれ違ったって、自分という個人が引き立たないと不安に感じる人はいないはず。そこには個性を表現する手段としてのこだわりはないからだ。この根本にあるのがグローバリズム。社会の均質化である。

教育もグローバリズムによって均質化している

国籍・民族という垣根を越えて、どこへ行っても同じものを手に入れることができる。世界を一共同体とするグローバリズム。先日ドラマ化された漫画「海月姫」でも話題となったアパレル業界に始まり、国内市場において飽和状態にある産業はグローバル化を試みない限り縮小均衡の一途を迫られる。これは教育に関しても同じことが言える。

例えば、近年日本でもようやく着目されてきた国際バカロレア(IB)。グローバル化の一端を担う国際的統一カリキュラムとして、世界中のインター校に通う子どもが、他の国に移動した後も同一の教育課程で学習を続けることができるように開発された。そのためシンガポール滞在中の家庭の子どもも、前任国のIB採用校で学んでいたとなれば、シンガポールでも同様にIB採用校に通うことで学習ギャップを気にすることなくカリキュラムに馴染むことができる。極めて汎用性のあるモデルだ。

しかしIBのカリキュラムでは、「自分は○○人だ」という国籍に起因した帰属意識を育むことはそれほど容易ではない。なぜなら扱われるテーマが極めて横断的であり、異なる人間・異文化における共通性(国際課題、問題解決力など)に焦点が当てられているから。「日本人としての心」と育て上げるような朝礼・終礼、毎日の掃除の時間などへの取り組みは皆無に等しい。そういう意味でIBは、StarbucksやUNIQLOのような国際的ブランドでと同じ位置づけにあると言える。それを日本やシンガポールの教育制度に取り込んだところで、育てられるのは「日本人」や「シンガポール人」ではなく「世界市民」に過ぎないのだ。そのため「国民」育成に対する費用対効果も低く、教育によって脱国家化を促してしまうという矛盾が生じる。

もはや地球上どこへ行っても同じクオリティでスタバが飲める時代。日本であろうとインドネシアであろうとドイツであろうと、カプチーノの味は変わらない。せっかくの海外旅行でもスタバやバーガーキングに足を運ぶ人たちがいるだろう。彼らの求めているものは「地域性」ではなく「安定性」だ。今や世界中どこの都市に行っても、まず目に入るのはスターバックス、マクドナルド、H&Mとおなじみメンバーばかり。絶大な認知度や安心感と引き換えに、私たちの生活は地球規模で淡白化している。こうして世界はどんどん味気なくなっていく。

国籍に捉われない個性を磨く

じゃあお前はIB反対派なのか!?と思われるかもしれないけれど。いや、そうではなくて。伝えたいのは、「日本人だから」どうこうではなくて、「あなたは何者か」という個性を問うことこそ教育の本質であるべきなんじゃないかいうこと。「私は○○することが好き」「私は○○が得意」「私は○○な性格」「私は○○が絶えられない」など、なんでもいい。とにかく一人称で語れるエピソードをたくさん見つけること。それを尊重してあげること。誰に対してもそれを促してあげるのが教育の理想の姿ではないだろうか。

私たちが自分のアイデンティティについて語る時、主軸の一つにはどうしても国籍を勘定してしまう。日本生まれ日本育ちである私が受けた教育は「日本社会で生き抜く日本人として」必要な素養に特化していたので、自分とは何者かと問われたら、まず「日本人」というカテゴライズをしてしまうことは否めない。それを一概に否定するつもりはないし、正直に言えば日本人であることが国際社会で有利に働いてきた経験も多少あるけれど、「あなたはどんな人?」と問われた時に社会的属性以外の個性で自身を語れるようになるには長い時間を要した。というか今でももがいている。

加えて「日本人」というアイデンティティに固執することは、実は極めて不確実でかつ主観的という問題点も伏せ持っている。社会とは本来流動的なものであり、常に不確実性を孕むもの。そのためいくら「日本人」というアイデンティティにすがったところで、「日本人」そのものの示唆するものが変わって行けば、自分の個性も揺らいでしまうのだ。また「日本人」という言葉への印象は千差万別で聞き手の主観に紐づくため、ひとりの人間として対峙する前に様々なフィルターがかかる。だからルーツや国籍による差別だって生まれてしまう。これは本当に悲しい。

世界はどんどん均質化され、アパレルも飲食も教育も全てがボーダーレスになっていく。ボーダーレスどころか、国籍すら曖昧で多様な個人が急激に増加していくだろう。そんな中で「○○人」という国籍だけで判断していては、きっと杓子定規な考え方で孤立してしまう。だから「○○人」という枠組みに縛りつけるのではなく、「あなたはどんな人なの?」という個性を問いただすことを忘れてはならない。

国籍に捉われない個性を持つことは今後の社会において確固たる強みとなるだろう。次世代の子どもたちにそういう教育を与えることができるのなら、未来はまだ希望に満ちている。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!