写真集 * Photo Walk

世界を旅して写真を撮る「Photo Walk」が好きです。
iPhone 6S Plus、NIKON D5300で、
日常の風景を撮影しています。
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『アルジャーノンに花束を』もしIQ185になれる手術があったら受けますか?

教育

ベトナム旅行2日目。

ホーチミンの街歩きはとても楽しい。バリほど外国人に媚を売っている様子はなく、またシンガポールほど無頓着でもない。あくまでも初日の印象だけれど。

昨日は昼間っからクラフトビールを堪能し、夕方は屋台でフォーを食べ、日が暮れてからはコーヒー店にこもった。乾季らしく肌触りの良い風が気持ちいい。留処なく行き交うバイクのエンジン音も、だんだん気にならなくなってきた。のんびりと町を散歩しつつ、ダニエル・キイスの著書『アルジャーノンに花束を』を読了した。

「天才」になれる精神外科手術

実年齢32歳にして知能レベルは6歳児という知的障害を患っている主人公チャーリィ。『アルジャーノンに花束を』は、そんな彼が精神外科手術によりIQ185の天才的知能を獲得し、再び退化していく様を描いたSF作品である。

親戚の営むパン屋さんで下働きをしている青年チャーリィには、ある夢があった。

ただみんなみたいに頭がよくなりたいのでそうすればみんなぼくを好きになて友だちがたくさんできるとおもう。

「りこう」になって友達を作りたい。その思いは障碍者センターに務める脳神経外科医や心理学者に届き、人工的に知能指数を高めるという夢のような話が舞い込んできた。いくつもの適性テストを受けた後、チャーリィは脳外科手術の第1被験者となる。そしてチャーリィに施す手術の実験台として使われていた白ネズミが、邦題にある「アルジャーノン」だ。

物語は施術前のチャーリィが書き綴った「けえかほうこく」によって第一人称で語られる。ぼくが単純な迷路ゲームでアルジャーノンに負けて落胆したこと。ぼくに手術を施してくれた教授に対する感謝の気持ち。もうすぐ頭が良くなれるという期待。

手術の効果は瞬く間に発揮され、半年が過ぎる頃には20ヶ国語を操り、脳神経科学界への大いなる学術的貢献となる「経過報告」へと飛躍を遂げた。

知識を得ることは果たして幸せか

ここまではサクセスストーリー。では本人の希望通りに知能が上がったことで、果たしてチャーリィは幸せになれたのか?残念ながら答えはNOだ。

「りこう」になったチャーリィは、以前働いていたパン屋に職場復帰するが、待ち受けていたのは残酷な現実だった。「りこう」になったがゆえに、数ヶ月前の自分が周囲からどのような扱いを受けていたのか悟ってしまうのだ。

友達を作りたいという思いで手に入れた知能。しかし頭脳明晰になったチャーリィを、パン屋の仲間や雇い主は受け入れてくれなかった。今まで自分より下に見て蔑んでいだ人物が、急に自分よりも秀でた知能を発揮するようになり劣等感と苛立ちを覚えたからだ。

以前、彼らは私を嘲笑し、私の無知や愚鈍を軽蔑した。そしていまは私に知能や知性がそなわったゆえに私を憎んでいる。

なぜだ?いったい彼らは私にどうしろというのか?

数々の理不尽や、人間の心の闇。認知力と記憶力の爆発的向上に伴い、芋づる式に思い出してしまう家族との離別。いじめられた日々。過去のトラウマ。

チャーリィの受けた手術は頭脳の発達には絶大な効果をもたらしたが、そこには情緒的成長が置いていけぼりにされるという科学の限界があった。「経過報告」に吐き出される、知らなければ良かった領域に踏み入ったがための葛藤が、とても切ない。物事の本質にメスを入れようと足掻くチャーリィの心の叫びは、読んでいて心をぎゅっと捻られるようだ。もうやめて、チャーリィ。大丈夫だから。お願いだからそれ以上賢くならないで、と。

そうこうしているうちに知能が最高レベルに達したチャーリィは、自分でも無意識のうちに人を見下すようになってしまう。尊敬していたはずの教授にも、好意を抱いていた女性にも、チャーリィ自身が軽蔑の目を持って接するようになる。そしてIQの高い彼はそういった自己をも認知し、自己嫌悪に陥る。友達を作りたいという願いは遥か彼方。障碍者センターで手術前の自分と同じ境遇にある子どもの面倒をみている職員にさえ、嘲弄めいた感情が隠せない。

あの人たちは、少ししか授からぬ者のために己れの一部をさしだすことに満足をみいだしているのだ。

そんな中、唯一感情をかき乱されることなくコミュニケーションを図れたのが、チャーリィと同様の手術を受けたアルジャーノンだった。自分と同じ境遇を辿る者として、いつしかアルジャーノンに対するライバル心はなくなっていた。チャーリィは時間が経つにつれ、アルジャーノンの術後の変化に自身の姿を重ねるようになり、また最終的に自分の未来をも見出すことになる。邦題の『アルジャーノンに花束を』は、2人の関係を読み届ければ合点がいくだろう。

本の感想と翻訳者の力

終始一貫してチャーリィの情緒変化を追っているのだけれど、彼の心情を察してちょうだい感はなく、むしろドストレートな直球表現ばかり。チャーリィの中の美しい体験は、繊細な感受性を備えたチャーリィの視点で、彩どりのビー玉のような透明感をもって描かれている。

色々考えさせられた中でも特に、人が人を好きになるのは何故だろう、という命題を突きつけられた作品だった。人は自分よりも劣っているものには愛情を注ぐことができるが、秀でているものには憎しみを抱くものだと全面主張しているようなストーリー展開。だとしたら無限の愛の象徴とされる母性も虚像なのか。またチャーリィの知能指数変化を辿り、賢いか賢くないかはその人の存在価値とは無縁であると思った矢先。だったらなぜ偏見や差別が起きるのだろうとまたしても自問がやまない。社会が変われば、自分が変われば、あるいは相手が変われば、いつだってその歯車が狂う余地はある。だからこそ誰かを慕う気持ちはとても尊いものであると思った。

主人公の独白で紡がれるストーリー展開は、荻原浩さんの『明日の記憶』や、久坂部羊さんの『老乱』と同じで、それゆえフィクションでありながらも自分ゴト化させられたような後味も似ている気がする。

ちなみに私が『アルジャーノンに花束を』にたどり着いたのは、翻訳者である小尾芙佐さんがきっかけだった。御歳86歳、小さな頃から文字通り「本の虫」だったらしい。『高慢と偏見』『IT』の2作で、ちょっと読みづらいけれどもコンパクトな訳し方が好きで、本作を読むに至った。

ある言語で紡がれた世界観を、全く違う文化の言語で編み直すんだから、翻訳家という人はやっぱりすごいと思う。『アルジャーノンに花束を』の原作”Flowers for Algernon”を訳すにあたり、小尾さんは「チャーリィと同じ特性をもつ画家山下清さんの放浪日記の文章を参考にした」そうだ。日本語訳された洋書を読み終わると、いつも必ず訳者が気になり、次に原作が気になるのだけれど、原作著者ダニエル・キイスさんの英語の表現もスッと入ってくる心地良さがあったので、さっそくKindleでポチってしまった(=・ω・=)

…とかね。全然ベトナムに関係ないという。今日は市内を離れ、メコン川方面に行ってこよう。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!