オールマイティを求める日本の教育システムをどう変えていけばいい?

大学時代から仲良くしている友人には変わり者が多い。

中でも大学一年生の時に出会ったT君はアクの強い人だった。一反もめんみたいにヒョロ長いくて、無駄におでこが広いヘビースモーカーが第一印象。知り合ってすぐ、小学校・中学校・高校どれも「卒業できたことがない」という過去を暴露してきた。クラスに馴染めず、他の生徒や先生に拳を振り回しては警察や少年院に送られるという繰り返し。そのため入学した場所で卒業まで耐えられたことがないという。

今は年に1度会う程度の付き合いだが、昔はよく渋谷の裏路地で大喧嘩していた。T君は学校という組織に対し異常なまでの嫌悪感を抱いていた。DV父親は家庭を捨て、アル中母親と10歳以上年の離れた弟との3人暮らし。その全ても教育のせいだと断言していた。終電を逃すまいと闊歩する人々の足音を全て掻き消す大声で、当時教員免許を取ろうとしていた私に向かって何度も吠え続けた。「教員なんて頭のイカれてるやつ全員いっぺん死ねばいい」とか、「警察にも少年院にも世話になったことのない人間にやつらを救う資格はない」とか。その声が冷たいアスファルトに吸い込まれる頃には、また静かに過去のエピソードを語りだすのだ。

全部が平等にできなきゃいけない

幼少期の経験というのは人それぞれだけれど、実際に学校に行くことが辛かったと語る人はT君含めとても多い。そしてその辛かったという経験には、「全ての生徒に同様の成果を求める」という教育システムが加担していると思う。

例えば、自分が得意とする科目の通知表で「5」を取っても、それだけでは先生を満足させるのは難しい。じゃあ次は苦手な数学の2を3にできるように頑張ってみようか、と返されてしまう経験はないだろうか。でもね先生、私が好きなのは国語で、ずっと5を取ってきたよ。数学を3に上げる時間があるなら本を読んでいたいよ。それでも求められるのはやっぱり「全科目で5」だった。ちょっとでもやらかしたら個別面接で放たれる決めセリフ。あなたそれじゃあ内申点足りないよ。先生の言う「それじゃあ」とは、「そんなバランスの悪い成績じゃあ」ということ。日本の教育では、未だに1や2や3に向き合う努力を強いられる。反対に一度5になった教科を伸ばそうと背中を押してくれる人は誰もいない。マリオで全クリしてしまったコースには誰も見向きしないみたいに。どんなに5以上の努力や情熱を注げる分野があっても、紙の上では「5」という数字に収斂されてしまうのだ。あれだけ重要性が掲げられている「個性」は一体どこにいったんだろう。

それから国算理数どれもできないのに英語さえできる子は神扱いされるという謎のヒエラルキー。日本の学校ならではの悪習だ。だから「オール5の品行方正児」と「愛嬌のあるおバカちゃん」と「英語だけできるエセ優等生」。学校の先生のお気に入りになるのは大抵この3パターンだと相場が決まっている。

とにかく、好きでもないことを強いられて良い思いをする生徒なんてどこにもいないだろう。少なくとも義務教育のうちにありとあらゆる科目が必修化されているのは、その中で自分の得意不得意を見つけるためだ。学校はオールマイティになるための育成所であるべきではないのだから。

教育の理想の形とは

とはいえ従来の日本の教育システムを真っ向から否定しようとは思わない。その制度の下でこそ伸びて、輝く子どもたちはたくさんいるわけだから。先のT君とは今でもたまに「教育の理想の形とは」について話す時がある。最近は別の友人とも同じテーマで語り合う機会があったので、改めてもんもんと考えさせられた。

私が理想だと思う要素の1つは、生徒に常に選択肢が残されている環境だ。理系・文系という進路選択以前に、学校に来る・来ないというレベルから。入社してから12年も同じ会社に勤めていれば、1日くらい出社したくない日だってあるでしょう。だから小中高生だって、12年もあれば1日くらい学校に行きたくない日があるのは極めて健全なはずだ。そこで友達がいるからこそ頑張れるという子は学校に積極的に通えば良いし、どうしても人と関わりたくないという子はリモートでオンライン学習をすれば良い。モンテッソーリ教育に限りなく近い感じで。協調性がなくなるとか、家庭や地域社会の負担が増えるというデメリットも囁かれるだろうけど、どうにか従来の日本の教育システムとうまくハイブリッド化させられないものだろうか。うーん、今の私の頭ではわからない。それを実現する策を知っている方がいればどうか教えて欲しい。

私は人間誰しもモビールのような形をしていると思う。一生を通して、色も形も大きさもバラバラのモチーフをぶら下げていくのだ。カラフルなものもあれば単色のものもある。銀河系をテーマにしたものもあれば、動物が形取られているものもあるかもしれない。想像しただけで心が踊る。

従来の日本の教育は、皆んなに同じパーツを支給して、皆んな一斉のタイミングでパーツを繋げていく集団作業と一緒だ。個性が全く求められたとしても「赤青緑黄の3cm角の立方体から好きな色を選んでください」程度。通知表でいう「54121」みたいなバランスの悪いモビールも良しとされない。けれど、先生から渡されたものをぶら下げたい子もたくさんいるでしょう。パーツそのものを自作してしまう子だっているかもしれない。形だって、真ん中にドーンと大きなモチーフを当てがう子がいれば、繊細なビーズで噴水のような形が作りたい子もいるはずだ。

だから学校教育が子どもたちに与えて欲しいと願うのは、自分でパーツを見つける作業の手助け。自分の「個性」の発見となる部分。それからモビールのバランスが傾いて子どもの力では修正不能となってしまった時に、つり上がってしまった方の腕にぶら下げるパーツの見つけ方。これは自分で見つけても良いし、他の人のパーツを借りてきても良い。日本社会で釣り合いが取れなくなってしまったモビールでも、どこかに「海外」というパーツをくっつければ素敵な形に戻るかもしれないじゃんね。そんな一筋縄ではいかないかしら。T君には甘い考えだと叱咤されるかもしれないな。みなさんはどう思われますか?

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