優しい無関心に甘えた生き方は幸せか

海外生活

赤煉瓦の民家と、海沿いに並ぶヤシの木。もしカリフォルニアがムスリム移民だらけの州だったらこんな感じの街並みになってたのかな。

コタキナバル滞在最終日は日曜日。滞在したホテルのすぐ裏が何やら賑わっている。近付いてみると、そこそこ大規模なサンデーマーケットが開催されていた。

カラフルな虹色テントの下で並んでいるのは、マレーシア土産や装飾品、乾燥ナマコなど。販売品や人々の話す言語から判断するに、中華系の住人が多数を占めるようだ。そんなマーケットに足を踏み入れてすぐ、ある店舗が目に留まった。

フルーツの苗木屋さんだ。

それもマンゴー、ドリアン(猫山王)、ジャックフルーツ、ザクロ、イチジクなど数多の種類のフルーツ。

ストリートマーケットは一部の東南アジアでは名物と言っても過言はないほどありふれた光景だけれど、苗木を売買している店舗は珍しい。そして購入していくのは現地の方ばかりだということにも気がついた。他の屋台で売られている品も、漢方薬や生活に根付いたものが多かった。

そして極め付けに、英語表記が全くない。

海外旅行先では、その土地がいかに観光業に依存していないか判断する術の一つは言語だと思っている。地元で最も評判の高いレストランのメニューにゴテゴテの英語訳と日本語訳が振ってあったら、食欲は半減するだろう。

現地のマーケットを歩く時も同じだ。少なくとも今回の旅で訪れたコタキナバルのマーケットは、現地民による現地民のためのコミュニティとして成り立っている印象を受けた。そのためか、過剰な声掛けや陰湿な値段交渉は一切見られない。「サンデーマーケット」の名に相応しい長閑な雰囲気。

外国人に媚びない町はとても居心地がいい。

社会の渦から一歩引いた距離感

外国人に媚びないといえばシンガポールも例外ではない。

外国人観光客よりも定住外国人労働者の存在なしでは成り立たないシンガポールに、とりたてて外国人全員に八方美人を貫く余裕はない。自国民も外国人も一挙に国力として扱われている。外国人労働者として滞在していると、この混沌とした多様性はむしろ都合が良い。外国人だからどうとか、日本人だからああだとか、望まない枠を不必要に嵌められずに済むから。

ベトナムのホーチミンもそうだった。ローカルマーケットで明らかに国籍の違う観光客が一人目の前を通り過ぎて行っているのに、勧誘の声がけ一つもない。ベトナムコーヒーとフォーを頼んで路地裏に座っていたら「あら、あなたこんなところにいたの?」的なノリで野良犬と近所のお婆さんがやってきて、他愛もない世間話に花を咲かせる。目の前の外国人がどんな目的を持ってこれからどこへ行くのか、全く気にも留めない。

大学卒業後シンガポールで現地就職したり、マレーシアのボルネオ島始め東南アジアを旅行したりして、改めて「いたい時にはいていいし、用がない時はいなくていい」という社会との距離感が好きなんだということを実感した。

「優しい無関心」とでも表現したら良いだろうか。自国民としての責任を問われない放任さを、生きやすいと感じてしまった。

海外在住というフィルターも相まって、社会付き合いはだいぶ希薄になってしまった気もする。

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優しい無関心に甘えるのは幸せか

他人との繋がりを希薄にするのは合理的で無駄のない生き方だ。そして何より、とても楽である。自分にとって有益な美味しい蜜だけ吸って、何か問題が生じれば言い訳を取り繕って適切な距離を保てば良いんだから。

だけど最近、精神健康法として人間関係で距離感を保つことにふと疑問がよぎるようになった。

自分ごとを語らせてもらうと、私の最大の弱点はプライドが高いことだと思っている。「こうでありたい自分像」と「こうなってはいけない自分像」が強く、自分の弱さをさらけ出すことができない。そのため非難されるべき核心を握られない程度のお付き合いから先に踏み込むことはいつも容易ではない。

だけど厄介なのは、人間関係の希薄化が処世術でいるわりには、阻害されることにあまりに敏感で、好意を持たれることには貪欲であることだ。

「楽」な生き方と「幸せ」な生き方は違う。

なんとなくこれが肌で感じられるようになってきて、果たして自分はこのまま社会の面倒臭い部分と距離を取り続けたままで良いのかと思う瞬間が訪れるようになった。企業に属しているし家族もいるけれど、なんだろう、自分のふらふらと浮遊しているような生き方には筋がない。

「なぜここにいるの?」と問い続けてくる社会で根を張るには、「私はここにいていいんだ」という理由を24時間365日、自分に言い聞かせていなければならない。その理由は家庭が作るものだったり、学校が作るものだったり、企業が作るものだったりいろいろあるけれど、私が住んでいた東京では「学歴」「年収」「容姿」こそが社会全体から個人に要求される存在意義だと相場が決まっているように思えた。だからいざその町で働くことが決まった時、最後の最後に怖気付いて尻尾を巻いて逃げ出した。予期した失敗に立ち向かえなかったのだ。完璧な自分像を崩せないプライドがあったから。

だけど、このままで良いのかな。新卒で海外現地就職をした人にはきちんとしたビジョンを描いてキラキラと活躍している人が多いけれど、私の場合は完全なる「白旗」だ。周辺社会に対する責任や義務を感じない海外というフィールドに逃げただけ。責任感の欠片もないと非難されても弁解のしようもない。

果たしてこのまま外国人に媚びない町や、自分という人間に優しく無関心でいてくれる社会に甘えて「逃げ」を続けて良いものか。最終的にどことも繋がらなくなってしまったらどうしよう。

そんなことが頭をかすめるようになったここ最近。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!