Waltz on the Ferris Wheel 〜もし村上春樹がシンガポールのホーカーの常連客だったら〜

-*- Prologue -*-

「キャル…あなたって悪い人なの?」

「そう思う?」

「…分らないわ。何が善で、何が悪なのか。アロンはとても善良よ。だけど…私は違う。少なくとも彼ほど善良ではないわ。だって、彼と一緒にいると時々…アロンはね、愛とはどうあるべきかについて考えて語り合うのが好きなのよ、それは決して間違いではないってわかってるけど…。(略)

愛って何なのか分らないわ。愛は清くて正しいものよ、アロンの言うようにね。だけどそれだけじゃなくて、あるはずなのよ、もっと他に何か…。あなたにこんなこと話すべきじゃないってわかってる、でも他に話せる人がいないの。…時々、自分がとても悪い人に思えて、頭が混乱するの」

「アロンが救ってくれるさ」

「そうかしら」

「愛してるならね」

「…つまりね、私が思うにアロンは…本当の母親を知らないからかしら…私を善の塊だって信じているの。母親とは清く正しいものだと美化しているのよ、それが彼の思い描く私の姿よ。彼が愛しているのは、”そういう私”なのよ。そんなの…本当の私じゃない。だって…私はちっとも良くできた女じゃないわ、これっぽちも!」

映画「エデンの東」より 琴音訳)

—*—*—*—*—*—

それはあまりにも突然やってきた。

客足が遠いた炊き出し現場のような、ホーカーという庶民食堂での出来事だった。

日が沈んでからバケツをひっくり返したように激しさを増したスコールの中、僕はいつもの麻辣店に向かった。いつものメニューに、いつもの店主。まるで素人のプログラマーに作られたロボットのように、左手に銀色のトレーを取る。だらしなく無精髭を生やした深夜の訪問者なんかに使われるよりも、インド料理屋さんでチキンカレーを盛り付けられた方がよっぽど本望であったに違いない。

右手にトングを持ち、トレーの中央に、薄切りにされた豚肉の塊を盛り付けた。そしてエリンギとタケノコを1切れずつ選んで両脇に並べた。赤い輪ゴムで縛られた空芯菜も選んだ。もうずいぶんと姿を見ていない父親の背中のように屈折した海老も2尾、追加してやった。

「辛さはどうするんだい?」容姿よりも若く聞こえる店主の声が響く。

彼の白シャツには相変わらず無数のシミがこびりついていた。それは老木に着生した地衣類を思わせた。霞んだ黒色の長ズボンは少しサイズが大きすぎるようだった。ポケットに詰め込まれた虫食いだらけの手拭きは、まるでそこに存在するのを悟られたくないかのようにうなだれていた。シャツもズボンも布巾も、全て安売りの店で買い揃えてきたもののようにしか見えなかった。それでじっと見つめていると、いつしか着られている服の方が気の毒に思えてきた。

「大辣でいいかい」

「ああ、大辣がいい」

シンガポールに住み始めてから何度目の雨季を迎えただろう。蒸したての肉まんのようにツヤのあった亭主の頬には、いつしかシワが目立つようになった。故郷の海を超えたのは、とっくの昔に倒産した雇用主の悪行が原因だったかもしれないし、昔付き合っていた彼女に言われた捨て台詞が発端だったかもしれない。ともかくそんなことは、今となってはどうでもいいことだった。この町では、僕が僕であることを証明する必要はない。八方美人と一匹狼の間のちょうどいいゾーンで、お互いに興味があるフリをしていれば誰もが大人になれるユートピアだ。

会計を先に済ませてから、喫煙席から一番遠い6人がけの丸テーブル<31番>についた。僕の定位置だ。先客が置き去っていったらしい青島啤酒の ——— あの店主に言わせれば「腐った水道水」だが ——— 大瓶をテーブルの端に避ける。いつだったか「物事何でも上と下を知った方がいいから」とマリーナ・ベイ・サンズの中華料理屋の麻辣を勧めてきたけれど、とりたて麻辣という料理にこだわりがあるわけではないのだ。少なくとも、世間の関心を引かないこの円卓よりは。

店主の末娘だという小太りの小姐が近づいてきた。一発ビンタされたら前歯が全てへし折れそうな豪腕で、麻辣香鍋をことんと机上に置く。ごま油とニンニクの香りが、すぐさま空っぽの胃を刺激した。まるで犯罪者が凶器についた指紋を拭い去るかのように、箸の先をTシャツでこすってから、タケノコの穂先をほうばった。好吃。この深夜の一口が僕の1日の始まりを告げるアラームだ。全国のみなさん、おはようございます。

その時だった。

「ねえ、ニホンジン?」

空耳かと思った。水の張ったワイングラスの縁を指でなぞったみたいな声が、自分に向けられたものだと認識するのに、しばらく時間がかかった。

隣の<25番>テーブルからだった。汗の吹き出る毛穴を軽蔑されてもおかしくない距離に、少女が腰掛けている。かなり小柄だ。口がいやに大きく、鼻がいやに小さい。小動物みたいな耳元で切り揃えられた漆黒の髪は、どこか東洋貴族の末裔のような尊厳を放っていたし、触れたら泡となって消えてしまいそうな白い肌は、雪国から南国へとタイムスリップしてしまった北欧の皇女のようでもあった。

「私たち、いいトモダチになれると思うの。あなたが嫌がらなければ、だけれど」彼女は僕の返答を待たずに、彼女の2つ隣のスタッキングチェアを引いた。骨ばった肩が揺れた。憂いを帯びたその厳粛な美貌は、まるで全盛期が過ぎ去ったあとのヴェラ・エレンのようだった。僕は仕方なく(こういうより他ないだろう)招待席に腰を下ろした。

彼女は15歳のようにも見えたし、35歳のようにも見えた。しかしそれを口にするのは憚られた。

「知ってる?これ」彼女が白いプラスチック製の箸で、トレーに残った黒い残骸を示した。茶色い麺がてらてらと光る餡でコーティングされている。

「ああ、黑胡椒牛肉干炒河粉だろ」僕は今まで星の数ほど耳にした呪文料理の名を平然と口走った。彼女の眉間に小さなシワが寄る。何か気に障りでもしただろうか。僕の胃の中のタケノコが苦薬にでも変わってしまった感じがした。むろん、彼女はそんなことは気にもとていない様子で話し続けた。

「私ね、昔から麺が好きなの。特にとろみのある麺がね。それで、つまり、気に入ったのよ。初めて口にした時にね。」

反論の余地はない。黑胡椒牛肉干炒河粉は、もちもちの餃子の皮をびろびろに伸ばしたような平打ち麺に、ピリッと黒胡椒のきいた餡掛けを施した至高の庶民派妙味だ。この絶妙な旨味に共感できぬ人類は、きっと閻魔大王に舌を抜かれたまま間違って現世に送り込まれたヤツに違いない。

彼女は河粉に混じったモヤシを最後の一本まで吸い込んだ。そして通りすがりのアンティーに”Teh Tarik”を注文すると、即座に作り置きのアイス・ミルクティーが運ばれてきた。砂糖菓子みたいに甘ったるいその飲み物で、黒胡椒の効いた河粉の後味を忘れ去りたいようでもあった。一口すすってから「ねえ」と言って顔を上げた。

「教えて。あなたがどうして麻辣を好きなのか」右ひじを立てて僕の方へと乗りだす。湖に浮かぶガラス玉のような透き通った目は、僕の顔面ではなくて、自分の頭蓋骨の内部を凝視しているようにも思えた。

「そうだな」僕は少し考えた。「ここに来る時は決まってこの麻辣を食べるんだ。他のは食べたことがない。河粉でさえもね。店主が古くからの知り合いなんだ。このホーカーには食事をするというより、汗をかきにきているようなもんだよ。とにかく、麻辣は無造作に選んだ肉や野菜に、ニンニクと生姜を加えてアツアツのフライパンで…」

「じゃあ質問の仕方を変えるわ。麻辣を食べることに一体どんな利益があるのかを教えて」

「それなら簡単だ。安いし、野菜も摂れる」僕は言った。

「そうね、安いし、野菜も摂れる」彼女は僕の言ったことを復唱した。そしてミルクティーをもう一口すすった。グラスを突き出して飲みたいかと目で問うてきたが、右手を軽く上げて丁重に断った。

「それで」再び目が合う「あなたのことは、何て呼べば良いのかしら」

「そうだな」僕は目をそらした「特に呼ばれるにふさわしい名前なんてないけど ———— あえて名乗るなら、キャルかな」

「キャル…そう呼べばいいのね」

「うん、キャルと呼んでくれ」

キャルはエデンの東という映画の主人公の愛称だった。キャルと、その兄アロンは、旧約聖書の創世記に登場するカインとアベルのように、愛情ではなく憎悪で成り立っている肉親関係にあった。そして彼らの良き相談役であるアブラという女性が、物語の核であることも告げた。

「じゃあ、あなたがキャルで、私はアブラね」彼女はかすかに微笑んだ。

「そう、僕がキャルで、君はアブラだ」僕は唐辛子をまとったタケノコを口に運んだ。さっきの穂先よりもずいぶんと硬く食べにくかった。

彼女はきっとその映画を観たことがなかったに違いないけれど、アブラという利発で美しい女性は、主人公キャルではなく、兄アロンの婚約者なのだ。人間味に欠けた歪んだ両親像に自我のルーツを求め続けるキャルは、いつしか父親から愛されずに育ったアブラと心理的距離を近づけていく。そして2人の思いが重なった時、浅草花やしきにあるような、剥き出しの白電球が巻きついた手動の観覧車の上で決して許されない口づけを交わす。僕は喉まで出かかった言葉を、オレンジ色のエビで無理やり押し戻した。その間、彼女は静止画のようにどこか遠くを見つめていた。

「君は」彼女の視線が再び僕を捉える「君は、どうして麺が好きなんだい?」それは無意味な質問だったかもしれない。動きを取り戻した彼女は ——— ある程度予想はしていたが ——— ツーという音を立てて甘い液体を飲み干すと「好きになった理由を説明できてしまったら、それは好きでないと言っているのと同じことよ」そう言って口の端をキュッと引き締めた。

僕は頷き「なるほどね」と言った。もはや彼女がどんなシンガポール料理を好むかはさして重要な問題ではなかった。それよりも問題視すべきなのは、僕がいかに麻辣を好きかという論点において彼女を納得させることができなかったかということだった。そしてそれは僕自身をも納得させるだけの理由を持ち合わせていないということに等しかった。

ホーカーという場所にせよ、麻辣というメニューにせよ、僕たちは自分に選択権があるような気になっているだけで、実は何一つ選んでいないのかもしれない。僕が今日この場所でこの夕食をとることは、あらかじめ決まっていたことで、ただ選んでいるという思い込みをしているのかもしれない。そう、今夜、彼女とトモダチになることでさえも ———。

「なんだかね」彼女がすくりと立ち上がった。想像していたよりもずっと背が高かった「世俗的な欲望を観念的に否定し続ける日々に、少し疲れてしまったの」スコール明けの西日に光る雫のような目だ。「わかるかしら?」

「あぁ、もちろん」僕は答えたけれど、答えはイエスであり、ノーだった。

「君が普段僕の思いつきもしないことを考えているということはわかった。それが君にとっていかに重要であるかということも。だけど、僕に理解を求めることが本当に正しいことなのかわからない。だって僕は ————」

僕の言葉が終わらないうちに、彼女は姿を消した。

それは風にそよぐイスラム教の祈りアザーンのようだった。

外ではまだ小雨が降り続いていた。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!