写真集 * Photo Walk

世界を旅して写真を撮る「Photo Walk」が好きです。
iPhone 6S Plus、NIKON D5300で、
日常の風景を撮影しています。
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「いい大人だから」「いい歳なのに」は自分の人生だけに留めよう

シンガポール生活

本日めでたく、子ども向けiPhoneゲームアプリ「たぬらん!!」をリリースした。シンガポールで出会った友人と、3週間かけて共同で作った初めてのアプリになる。Apple Storeに申請後、承認通知が来た時の嬉しさといったら!

‎Tanu Run!!
‎Racoon adventure in nature! Tanu Run!! is the first series of a horizontal-scrolling automatic runner platformer game published by two Japanese met in Singapo...

さてこの「たぬらん!!」だけれど、制作にあたっては友人がプログラミングを担当し、私がコンテンツ(イラスト・サウンド)を提供するという協力体制をとった。

音楽制作は、中学時代以来だった。父親の折りたたみ式ガラケーを借りてケータイの着信音(リングトーン)を作ることにハマっていたのがその時期だ。ファミリーマートの入店音とか、山手線の発車音とか、とにかく耳に入ったものを片っ端からコピーしていた。そういえば一番最初にリリースした着信音は、ディズニーのエレクトリカルパレードだったな。そこから過去の記憶が呼び戻される。確かディズニー繋がりでピーターパンの「君も飛べる!You can fly!」の編曲を作っていた時に、父親がケータイを紛失して、結局完成できなかったんだ。

そんなことを思い返していたら、深夜にネット検索のドツボにハマってしまって、「大人」でいることが罪であるネバーラントでは、「子ども」でなくなった者はピーターによって殺されているという恐ろしい噂まで発掘してしまった。まじか。

であれば、今の自分がネバーランドに踏み込んだら、ものの数分で暗殺されるんだろうな。

「大人になる」の定義はわからないけれど、個人的に「大人」になるにつれ覚えた感覚は、何もしていない自分に対する「焦燥感」だ。子どもの頃はドッジボールや鬼ごっこに明け暮れていれば1日が終わっていたし、それが「普通」で後ろめたさを感じることはなかった。今では仕事をしていても、目に見えるアウトプットが続かなければ焦りを覚えてしまう。ただ「何もしない」だけではハッピーを享受できなくなった。ハッピーでい続けるためには常に何らかの引き金が必要なんだ。そう実感するときに、大人になっちゃったんだなぁ、と思う。

「いい大人なのに」という心の枷

焦りとは別に、「大人になる」と心に2つの「枷(かせ)」ができるような気がしている。

「大人ならこうあるべき」という常識と、「大人ならこうすべきではない」という制限。

例えば先日ビンタン島での出来事を取りあげよう。

シンガポール発・週末ビンタン島旅行で初っ端から痛恨のミスをした話
国土が狭いため「国内旅行」という楽しみ方ができないシンガポール。代わりに周辺国へと気軽に足を...

海沿いリゾートでのサンセットは格別だった。プール沿いに並んだソファーに座って、女子2人でのんびり。水面に揺らめくロウソクの灯り。緩やかに流れるJass。ふわふわのクッションにもたれかかりながら、しっぽりと日常について語り合う。なんだこれ。ハネムーンか。

あぁもう絶対オフィス勤務なんて無理だね。

シンガポールにすら戻りたくないよね。

この誰にも邪魔されたくない平穏を、あったかい緑茶をゆっくりと呑みくだすように、心の芯から享受していた時だった。

キャハハ!私たちのピースを、耳障りの悪い金切り声が破った。

お世辞にも「お姉さん」とは言えない見た目の4人組だった。ほんの1,2フレーズ聞いただけで、すぐにシンガポール人だとわかった。全員、下着が透けて見えそうな薄地のミニ丈ワンピースを着ている。日が沈んだにもかかわらず、頭にはサングラス。彼らもプール沿いのソファーに座って語り始めるのだろうか。でもあの大声で話されたらJassバンドが台無しだな。

そんなことを思っていたら、誰が見ても私たち2人も彼らの一味だと思うくらいの近距離で、彼らは何十枚というセルフィーを撮り始めたのだ。

自撮り棒でパシャり!サングラスをかけてパシャり!プールをバックにパシャり!次に椅子に座ってパシャり!足を組んでパシャり!テンションの高い彼らから、シャッターの数と同じくらい奇声があがる。自己肯定感がだいぶ強いのか、ただのナルシストなのか…。そんな光景が30分くらい続いた。まるで中学校の修学旅行みたいな盛り上がり方だ。

それを横目に見ていた大阪女子が、ふと呟いた。「いい歳して恥ずかしくないんですかね」。私も同じ意見だった。だって日本人の同じ年齢の人たちが、彼らと同じように自撮りでキャッキャはしゃぐようには思えない。

そんな時、つくづく私は自分に対しても、他人に対しても、「枷」に縛られてるなぁと思うんだ。

「大人なんだから」は自分だけに限定しよう

私たちにはある程度、年齢に適した態度・行動というものがある。特に日本の場合、そういった「こうあるべき」条項が顕著であるように感じる。6歳になったら小学校入学。「飛び級」がないため、18歳で高校、22歳か23歳で大学、あるいは24〜26歳で大学院を卒業して働き始めるとある程度相場が決まっている。社会人ともなれば、「大人」としての責任が問われる。いつまでも実家にいては自立しなさいとお尻を叩かれ、途端に重くのしかかる「教育・勤労・納税」の三大義務。でもそれが「普通」なんだ。

しばらくするとウェディング・ラッシュが始まる。FacebookやInstagramなどのSNSのタイムラインが、婚約・入籍・結婚式などの幸せいっぱいの報告で溢れる。「女の市場価値はクリスマスケーキ」と言われているけれど、25歳を境に「そろそろ落ち着け」というモードに周辺社会が切り替わっていくのだ。

恋人のいない人には「最近どう?」

彼氏がいたらいたで「結婚はまだ?」

結婚したらしたで「子どもはいつ?」

子どもを産んだら産んだで「2人目は?」

エンドレス。他人の人生なのに。ほっとけよ。

でも、そこでハッと我に返ると、ビンタン島のおばちゃん4人組に対して「いい歳して」と思った自分の心こそ、価値観の押し付けだったことに気付く。その年齢に「ふさわしくない」とか、大人なのに「恥ずかしい」というのは、自分の色眼鏡に過ぎないのに。自分があれこれ言われたら、おせっかいだと思うくせに、自分は他の人の人生に対して、勝手に踏み込んで物申してしまった。これは良いことではない。

「いい大人」が、今の人生をめいっぱい楽しんでいる。年齢を気にせず、今この瞬間、輝いている。それだけで、とても素晴らしいこと。だから他人に対して「いい歳して恥ずかしい」と思う気持ちは、自分自身の「枷」の表れに過ぎないのだ。

自分も年齢に縛られず「Ageless」に生きたいものだ。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!