写真で見る世界の町 - Photo Walk -

シンガポールでの就労経験が引き寄せる不思議な「ご縁」

シンガポール生活

11月に入り、町は「ハロウィン」から「クリスマス」へと慌ただしく模様替えをした。

過ぎ行く人々が、一気に冷静さを取り戻したように見える。クリスマスと言えば、年に一度のカップルイベント。その前に、子どもたちには学期末テスト、大人たちには仕事納めが待ち構えているからだろうか。色めく装飾たちとは裏腹に、ちょっぴり緊張感が漂っているような。「平成」最後のクリスマスだから?関係ないか。笑

雪の結晶。サンタさん。雪だるま。耳馴染みの良いメロディたち。

クリスマスの装飾が一面に施されると、町はすっかりと冬らしくなる。

そう、「コタツ」や「囲炉裏」が恋しくなる時期なんだなー。

そして、訳もなく「情緒的な何か」に触れたくなる。

先日、ふと思い立って、普段行かないところに足を伸ばすことにした。

その名も「江戸東京たてもの園」

東京都にある、江戸期から昭和をモデルとした復元建造物がずらっと並んだテーマパーク、みたいなところだ。下町の風情あふれる街並みや、1970〜80年代に廃止された、黄色い都電7500形。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような雰囲気を味わうことができる。平日真昼間だから空いているかと思いきや、案外カップルや老夫婦、学生たちで賑わっている。400円の入場料を払ってでも「情緒的な何か」を求めている人がこんなにも多いということか。

当日のハイライトは「高橋是清邸」だったんだけと、個人的に気になったのは、江戸時代中期に建てられたという、茅葺き屋根の民家だった。

特出した理由はなかったんだけどね。

今思えば、この時すでに、何か惹かれるものがあったのかもしれない。

何となく踏み入れた先に、見つけてしまったんだ。

この、囲炉裏。

勝手口を抜けて中に入ると、外界の音が一気に遮断された。パチパチという火の粉の音が、静かに響いている。

あー。良い。

梅干しを見たら唾液が出てくる「条件反射」と同じように、囲炉裏を見れば自然と心が落ち着くものだ。

側には、白髪のお爺さんが一人、座っている。

火吹き竹を手に取って、囲炉裏の中心に向かって「フーッ!」と一発。鮮やかなオレンジ色が浮かび上がる。そこを、今度は火箸でつつき始めた。数メートル離れているのに、しっかりと届く熱気。まるで教会の祭壇に並ぶキャンドルの灯火に注ぐような眼差しで、じっと炎を見つめてしまった。

すると。

「寒いでしょ。どうぞ、あったまってください」

ハツラツとした声に、ハッとした。

例のお爺さんだった。

艶の良い、色白の肌。あぐらをかき猫背の体勢のまま、顎をクッと引いて私の言葉を待っている。ように見えた。「東京江戸たてもの園」と文字入れされた青い法被を着ている。どうやら、職員さんらしい。

「どうぞ、お座りください」と、分厚い左手の指先を丁寧に揃えながら、向かいの丸座布団を示す。

お爺さんの名は、緒方さん(仮名)と言った。

嫌悪感を全く感じさせないのに、聞くものが思わず従ってしまうような、威厳の宿った声だった。誘われるがまま、囲炉裏の側に腰を下ろした。

束の間の静寂。パチパチと舞う、火の粉。薪から漏れる、シューというガス音。民家の外で響く、楽しそうな子どもの声。全て、高い天井に吸い込まれていく。ニスの塗られた大黒柱にかけられた時計が刻む秒針さえ、自分の心臓から聞こえてきそうだ。緒方さんが、再び火箸で薪をつついた。

時計の長針が何周かした後、「あたたまりますね」と声を漏らすと、それがコミュニケーション開始の合図であったかのように、緒方さんがせきを切って語り始めた。江戸時代中期の柱作りの技術について。外国人のお客さんが増えたという最近の観光情勢について。囲炉裏にぶら下がっている「自在鉤」(ジザイカギ)が魚の形をしている理由について。ちなみに「魚は水辺に生息する」ことから「火の用心」として、それから「魚は目を閉じない」ことから「防犯対策」としての、二重の願掛けを意味しているらしい。知らなかったー!

そんなこんなで、ひとしきり「たてもの園」についての会話に花が咲いた後。私たちの話は「過去」から「現在」へと移行した。

「何して働いてるの?」

幸い、シンガポールを去っても変わらずに続けられている仕事のことを少し話す。

すると驚きの一言が返ってきた。

「わたしも昔、シンガポールに住んでいたんですよ。」

えぇー!?そうなんですか!!

シンガポールの滞在経験が引き寄せる不思議な「ご縁」

同年代で「シンガポールに行きましたよ」という共通話題で盛り上がることは少なくないが、何となく訪れた「たてもの園」の、これまた何となく訪れた民家で、シンガポール滞在経験者に巡り会うとは予想外すぎた。

聞けば緒方さんは、今年で「傘寿」を迎えられたという。

東京の新宿付近で生まれ、小さい頃に東京大空襲を経験。空を飛ぶB29から「ペラっと剥がれて」投下された焼夷弾が、遠く離れた場所に着地した時の衝撃を、今は亡き彼の母の言葉で「まるで自分の背中に爆弾が落ちたみたいだった」と語った。私の祖父も、東京大空襲の大混乱の中を兄弟姉妹、手を繋ぎ逃げ回った経験を持っている。そうか、自分の祖父と変わらぬ年齢でいらっしゃるのか。

シンガポールへの初渡航は、40年も昔のこと。ちょうど1985年の「プラザ合意」の直後にあたる。円高が急速に進み、合意前に1ドル240円程度であった為替レートが、半分の120円台にまで落ちた頃だ。リー・クアンユー元首相がシンガポールの発展に血肉を注ぎ込む中、経済の波に乗った日系企業による東南アジア進出が経済発展をもたらすようになった激動の時代とも言える。

そんな中、緒方さんは2年半、シンガポールに派遣されていた。しかも「駐在員」として。月々の家賃700ドル(今で言う14万円ほど)の住まいで、結婚したばかりの奥さんとの2人暮らしだったという。きっと、エリートの出世コースまっしぐらだったに違いない。お仕事の内容は伺わなかったけれど、民家に入ってすぐ「寒いでしょ。どうぞ、あったまってください」と掛けてくれた声に宿る威厳のワケが、なんとなくわかった気がした。

オーチャード地区にあるコロニアル調のGoodwood Park Hotelで、日本食屋さんを営んでいたご友人が帰国した話。挙式を挙げられたというチャイムス(Chijmes)での思い出。二葉亭四迷・からゆきさん・音吉らの眠る日本人会墓地の当時の様子。今年で建国53周年を迎えたシンガポールに今でも残る面影の数々が、緒方さんの言葉で紡がれる「記憶」と共に、鮮やかに思い返された。

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40年も昔に緒方さんが見たシンガポールの景色は、一体どんなだっただろう。

シンガポールの歴史は、主に美術館や書籍からの情報でしか知り得ない。だから同じ日本人として、実際に滞在された人からのお話は、とても興味深く、貴重である。

シンガポール建国後の激動の時代に、2年半滞在されていた、緒方さん。

かたやつい先日まで、同じく2年半滞在していた、私。

老若男女てんでバラバラであるのに、「シンガポール」というキーワードは不思議と一体感をもたらす。

「私も昔住んでましたよ」。

これは同胞意識が芽生える、魔法の言葉だ。

シンガポールを離れても、「その場に住んでいた」という経験は、こうして新しい出会いを連れてきてくれる。

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本日も最後まで読んでくださってありがとうございました!